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2009.11. 7.Sat

藤田淳子展

今週は、大御所の藤田淳子先生の個展。
大学の教育学部の美術教育に30年以上携わった。
毎年、個展を開催し、制作意欲は衰えるどころか、ますます旺盛だ。
生きることが絵を描くこと。
絵を描くことが、健康の秘訣とおっしゃるように、個展開催中は毎日会場にいて、来て下さるお客の
一人、一人に声をかけて、お話なさるお姿は、大変、魅力的で、すばらしい。
昨日は、9時まで画廊を開けていたが、イタリアの甘いお酒、チンザノをなめるように、ちびちび飲みながら、やや毒舌気味の先生のお話を伺い、大笑いした。
藤田先生のタイトルは、『ミクロコスモス-ワンダーランド』だ。
村上春樹のハードボイルド-ワンダーランドではないが、村上春樹も良く読むとのこと。
会期中に、またいとこさんが先生の結婚式の写真をお持ちくださった。
先生は大変お美しく、また、男爵様と思われるかのような旦那様のお姿。
やや時代を感じさせるセピア色の写真。
芸大を卒業されて、すぐご結婚されたというが、生涯、芸術の魔性に取り憑かれ、炎がめらめらと燃えているような精神には、感服せざるをえない。


2009.11. 7.Sat

写真教室

今月から、森 祐二写真教室に通うことにした。
しかし、朝、早く起きられず、調布の神代植物公園に着いたのは、午後の1時過ぎだった。
バラ園は、ちょうど満開の時期だ。
花をとっては右に出る人はいないと言われた写真家の森先生に教わることに。
しかし、そう簡単に良い写真が撮れるはずはない。
なかなか難しいものだ。
あまり遅く来たので、あっという間に講座は終わった。
調布の神代植物公園の中に熱帯植物園もある。
園内はかなり広く、汗ばむほどの暖かさだ。
空気は良いし、気分は最高だ。
花の生気をすって、とてもいい気分。
終わってから、メンバーのみなさんとお茶タイム。
バラのシフォンのケーキセットを注文する。
なんて良いバラの香りだろう。
いつもギャラリーという四角い箱の中にいる私を心配した写真家の森先生が、「たまには外にでておいでえ」というので、行ってみることに。
森先生は、冗談好きで、たいへんおもしろい。
ずっと笑いっぱなしだ。
さすが、人気の講座らしく、那須の流氷の写真を夜便でたち、夜明け前に撮るというハードな講座も、満杯。
そんなハードすぎるバスツアーには興味はないが、植物園での撮影会はとても楽しい。


2009.11.13.Fri

セドナ

大変、参考になる意見をいただいたので、本人の了解済みにて載せてみた。

玉石混合の美術界で玉を見つけるのは画廊ビジネスとして重要かと思いますが、「これぞ!」という石を拾って磨き愛でる方が本当は大事に思います。
大変勝手で失礼しますが、羅針盤の仲間からは玉に勝る石であるかのような前途洋々たる素晴らしさを感じます。
みな争うことなく仲良く並んでいる様が、もしかすると人を引き付ける安心感に繋がるのかと思います。
さすれば、岡崎さんは磁石のようで(女性なのにすみません(笑))みなさんを引き付け、羅針盤の名の通りあるべき方向を指し示す存在なのかと思います。
昨日もふっと足が向いたのはそのせいかと思いました(笑)
ただ、我々若手は磨けば「玉」、放れば「石」になってしまう危うさもありますので、これからもご指導ご鞭撻の程宜しくお願いします。』
と、あり、また、
『なんとなくですが、羅針盤に行くとラッキーなことがあるような気がします。
最近やや落ち込んでいた私には特に運気が上がったように感じます。(本当に!!)
セドナではないですが、スピリチュアルスポット(ヒーリングスポット?)なのかもしれませんね☆』
という嬉しいメールが来た。
いつでも爽やかで素敵な作家さんなので、こっちが元気をいただいてるという感じだが、やはり、前向きな波動というものがあれば、電流のように伝わっていくのではないかと思われる。
画廊を初めてすぐに日本画の存在に心惹かれ、これからは日本画に新風が吹き、世界の中で日本の独自性というものが経済よりも文化面で評価される日が来るのではないかと直感した。
『みな争うことなく仲良く並んでいる様が、もしかすると人を引き付ける安心感に繋がる』と上記にあるが、このことは、なんと得難いことではないかと思う。
真にすぐれた芸術家には、どんな国のどんな歴史をもつ民族間の争いをもなくし、平和への祈りをメッセージとして込め、象徴的に表現できる力があるだろう。
夏目漱石ではないが、則天去私の言葉が脳裏によぎるのであった。
しかし、セドナといわれてしまった。
意味深長だ。
しゃれた引っかけが上手いなあ。
私は、海には大変縁があるので、セドナに反応しましたぞ。。。。

2009.11.13.Fri

古田ゆかり展

『川村記念美術館のロスコルームもいいけれど、それに匹敵するくらいの素晴らしさで、この空間から離れ難い』と、絶賛されている。
滞在時間が長くなればなるほど、人はみな古田ゆかり作品に魅了されるのである。
『作家のこころの思いの深さが作品の深度に呼応する素晴らしさだ』と評論家の先生から、お褒めのお言葉もいただいた。
以前は普遍的なものを描きたいと思ったそうだが、デンマークへ旅するようになってから、素の自分をその時々の心の流れのままに表現し、見る人には自然に感応していただきたいと思うようになったのだそうだ。
さて、同じ日本画の作家さんからの感想を紹介させていただくことにした。云い得ているので、感動した。

古田さんの作品からは以前にはなかった何か新しいメッセージを感じます。
今後が大変楽しみです。
画廊でお話した「絵描きの日常は絵の中にあり」と申しましたが、同時にやはりよく耳にする「自由」について最近考えておりました。
英語にすれば「free」で、往々にして同様の意味として使われますが、私の考えでは「自分に由来する」のかと思います。
上述の「何か新しいメッセージ」には彼女の「新しい自由」が当てはまるのではないかと、あの「紅葉の渓谷」や「松の木」に見える作品(本当のタイトルは「融化」「森を覆う」でしたっけ?)から感じます。
また、岩絵の具は見せて頂いたジュエリーと同じく、人の手に掛かれば陽光を放つ玉となって美しく、
反対に自然に有れば月下に佇む石となってこれも美しく感じます。
兎角、青・緑は「色」として見えることが多いのですが、古田さんのは水をしたためたようで、才能を感じます。
PS:
緑青の孔雀石の石言葉は「危険な愛情」で、
群青の藍銅鉱は「二面性の調和。理想と現実を結び付け、精神と肉体を癒す。」だそうですよ(笑)

新しい自由を獲得した彼女の内面は、人を包み込む柔らかさも兼ね備えている。
宝石のような輝きを放つ彼女の絵は、人の心をとらえて離さない。
小さい作品も多数あり、お手頃価格なので、なかなかの人気である。
ぜひ、お見逃しなく。
来て後悔はしません。

2009.11.13.Fri

ゆかりさん

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2009.11.14.Sat

芸術家集団マニフェスト

以下のような意見もある。いかがなものか?

文字が発明される数倍もの昔から、絵画は意思伝達の手段でした。そして、それはその時代の世界観、哲学、未来予想図そのものでした。
 例えば、西洋美術において、あらゆる表現芸術や学問に魁けて、ダ・ビンチの作品は、それまでのキリスト教的価値観を否定し、人間中心で自然科学が発展していく次代を予見させました。また、ピカソの作品も、他の芸術、学問に魁けて、個人の命や生活が、まだまだ国家や社会の制約に縛られていて当然であった時代に、表現の自立を提示して、個人の人権意識を高め、実存主義、そして構造主義への橋渡しを顕現したのですから、社会的事件でもありました。美術評論家にとどまらず、あらゆる文学者や哲学者が、彼らについて大いに議論もし、研究したのは当然であって、彼らに限ってではありますが、「芸術家」と言う概念が生まれたのです。(美術に携わっているだけで、芸術家とは言えません。)
 ところが、現在、日本では、美術の社会的立場が視覚的エンターテイメント、いわゆる趣味の世界として限定され認識されています。 
 美術を生み出す側として、各個人の資質のありようが大きいのは当たり前ですが、特に、凡庸な日本の作家たちは、そのような美術の可能性を自ら気がつかないのか、あるいは放棄して、売れる作品を作ろうとエンターテイメントに徹する、あるいは過去の表現方法からぬけ出せない場合が大多数です。
 それは、我々日本人が、日本人であると言う民族的な一体感(日本人は単一民族ではありませんが)をゆりかごに、死生観を委ねてしまっているからかもしれません。
 真の表現者となるには、名誉欲や金銭欲が動機となって、社会に対しておもねることをしないで、絶対的客観性と自立性を持って、ただ、自己の美意識に身を委ねる必要があるのですが、多くの国内作家は、ゆりかごのようなレトロ感にはまりこんで、一体感を共有することが美術だと錯覚して、自分で自分の頸を絞めています。
 現代美術が、過去の価値観を「壊す」からこそ、新たな世界観を提示します。しかし、我々日本人には、長年の習慣や風習が間違いであったとしても、それを「壊す」ことに、とても抵抗感や違和感、恐怖感があります。「壊す」という概念は、日本社会の中で、なかなか受け入れられません。例えば、日本文化論者が、日本は有史以来、血なまぐさい政争で、実質上の政権が変わったとしても、万世一系の天皇制度が一度も「壊れなかった」ことが、日本文化の誇りだと発言するような。私は天皇制否定論者ではないですが、そのおかげで、全く新たな視点を得るという機会が得られなかったことも事実だと思います。従って、特に日本では、「価値観を壊す」現代美術は世間一般に受け入れ難いという前提に、私は立っています。
 新しい美を打ち立てるためには、まず「壊す」ことが重要ですが、「壊される」側がある以上、根強い抵抗があることは必然です。自分自身の手で、根本から、有史以後、国民的アイデンティティーを「壊したことがない」日本人にとって、根源的な変化は受け入れ難い概念です。(第二次大戦敗戦での国民的アイデンティティーの破壊は、「破壊された」ものであって、自ら放棄したものではありません。) 
 ということで、私は、現代美術を始めた時から、社会や世間に簡単に受け入れられる、という幻想は捨て、厳しい生活を覚悟いたしました。従って、私にとって絵を描くとは経済活動ではなく、壮大な趣味、あるいは自分にとって、作ることが宗教的意味をもつこと、になってしまいました。
 しかし、経済効果をはかる必要がないので、世間に媚びる気持ちで作品を作らずにいられることも事実です。

んだ、んだ。。。。。。。と思うでしょうか?

2009.11.17.Tue

古田ゆかり展の感想

こんな感想をブログに載せてくれた人がいたので、以下,掲載しました。
古田さんはとても喜んでいます。

近くに用があったのでついでにいい感じがあれば見てまわろう、と、思ってたおり、
外に出てる看板が気になって2階へあがった。

最近、わたしが気になる系統だと気がついたのだが、
何を描いてるかすぐにはわからない、もやもやした感じの、
具象とも抽象ともつかぬ絵画。

言葉、に弱いわたしをくすぐる題名と、こころ惹かれる色合い、で、ぱっと見は
抽象に見える、が、その題名の意味するところがあるのかもしれない。

作家さんとお話しも出来て楽しかったのだが、
お話の中で印象に残った内容は
「題名を決めるのは制作と同時進行」

「題材は具象」
と言うくだりだった。

同じ題名の作品が3点並んでいるのも気になったが、これも
1点ずつみてもよいのだが、時間の経過で少しずつ違う局面を描いているそう。
それは3点まとめてお買い上げ、せねば。

ひさびさに気になる作家さんとの出会い、で、
わたしとしてはめずらしく会場撮影をお願いしたりした。
この画像にひっかかってギャラリーに足を運ぶかたが増えたらいいな、と思いつつ。

そう言えば去年出会った気になる作家(坂内 圭)さんも羅針盤での出会いだったと
思い出した。

会期中にもう1度足を運んでみるつもりなので、とりあえず印象に残ったことだけ。

2009.11.20.Fri

んだ、んだ。。。。。

11月14日のブログ、んだんだと思います。
先日の物議をかもしている芸術家集団マニフェストですが、以下のような意見も。

日本人は、「守→破→離」というプロセスが好きだから、いきなり「壊す」ということは抵抗を感じるんでしょうね。
でも、何かを「壊す」には、「力」が必要です。
何かが大きくなればなるほど、壊そうとする力が大きくないと壊れない。ブタの貯金箱を金づちで叩けば簡単に壊れるけど、奈良の大仏を金づちで叩いたってびくともしない。
この平穏な世の中では、何かを壊してやろうというエネルギーは、犯罪者の負のエネルギーくらいしか生まれないのでしょうか。
壊してそこから自分で何かを構築しようという正のエネルギーの持ち主は現れにくいのかもしれませんね。

同感です。

2009.11.20.Fri

体験型彫刻

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荒井裕太郎作品とポーズとってました。
パチリ。

2009.11.22.Sun

指先に宿るエロス

荒井裕太郎の彫刻を見て、『羅臼(ラウス)昆布みたいね。北海道の海にただよう昆布みたい』という。
何者をも連想させない、イメージをもたせないような彫刻だが、人は彫刻という存在の物体を何かしらかに見立てようとするのだろう。
実際には、1.2ミリの薄い鉄板を手でおりながら、一発勝負のように偶発的に出来た造形らしい。
鉄という固い金属を袋状にし、それを折り曲げながら、造形するので、先にデザインがあるのではないという。
裂いたり、折り曲げたりしながら、そのひん曲がった形に向かい、『そうでたか?なら、それを生かそう』という具合に、素材と対話しながら作るのだという。
無理にねじ曲げたり、強制的に作り込むようなやり方ではないところに作家の性格が滲み出ている。
又,却って自然な形でそこにあるかのような存在感を際立たせている。
らうす昆布と見立てた女性は、ピアニストらしいが、ピアノも鍵盤と対話し、そこには必ずエロスがあるのだという。
『この彫刻も指先に宿るエロス的対話があるのでしょう?』といい、本人がいないからもっと話すけれど、『彼の作るジュエリーも女性を象徴するような形でエロチィックよね』という。
上に伸びていく袋状は、まさに男根的でもあり、花のようでもあり、裂いた隙間から見える空洞はなんにもない空っぽだが、めくれ上がった細部には、何かしらの淫微な風情がある。
鉄で出来ているようには思えないほど、しなやかで艶かしい革のような質感はどこから来ているのか?焼き付け塗装ではあるが、熱帯魚のような黄色や赤の鮮明な色の彫刻もある。
袋状の形態を折り曲げながら作る有機的な曲線。
魚を触ったときのようなぬるっとした質感。
触りたくなるような触覚性が魅力だ。
いつも、鉄をなで回している彫刻家の手。
その艶かしい指の動きを感じる、ピアニストの指。
指に反応する音楽家にインスピレーションを与える作品であることは間違いがない。

 


   

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