以下のような意見もある。いかがなものか?
文字が発明される数倍もの昔から、絵画は意思伝達の手段でした。そして、それはその時代の世界観、哲学、未来予想図そのものでした。
例えば、西洋美術において、あらゆる表現芸術や学問に魁けて、ダ・ビンチの作品は、それまでのキリスト教的価値観を否定し、人間中心で自然科学が発展していく次代を予見させました。また、ピカソの作品も、他の芸術、学問に魁けて、個人の命や生活が、まだまだ国家や社会の制約に縛られていて当然であった時代に、表現の自立を提示して、個人の人権意識を高め、実存主義、そして構造主義への橋渡しを顕現したのですから、社会的事件でもありました。美術評論家にとどまらず、あらゆる文学者や哲学者が、彼らについて大いに議論もし、研究したのは当然であって、彼らに限ってではありますが、「芸術家」と言う概念が生まれたのです。(美術に携わっているだけで、芸術家とは言えません。)
ところが、現在、日本では、美術の社会的立場が視覚的エンターテイメント、いわゆる趣味の世界として限定され認識されています。
美術を生み出す側として、各個人の資質のありようが大きいのは当たり前ですが、特に、凡庸な日本の作家たちは、そのような美術の可能性を自ら気がつかないのか、あるいは放棄して、売れる作品を作ろうとエンターテイメントに徹する、あるいは過去の表現方法からぬけ出せない場合が大多数です。
それは、我々日本人が、日本人であると言う民族的な一体感(日本人は単一民族ではありませんが)をゆりかごに、死生観を委ねてしまっているからかもしれません。
真の表現者となるには、名誉欲や金銭欲が動機となって、社会に対しておもねることをしないで、絶対的客観性と自立性を持って、ただ、自己の美意識に身を委ねる必要があるのですが、多くの国内作家は、ゆりかごのようなレトロ感にはまりこんで、一体感を共有することが美術だと錯覚して、自分で自分の頸を絞めています。
現代美術が、過去の価値観を「壊す」からこそ、新たな世界観を提示します。しかし、我々日本人には、長年の習慣や風習が間違いであったとしても、それを「壊す」ことに、とても抵抗感や違和感、恐怖感があります。「壊す」という概念は、日本社会の中で、なかなか受け入れられません。例えば、日本文化論者が、日本は有史以来、血なまぐさい政争で、実質上の政権が変わったとしても、万世一系の天皇制度が一度も「壊れなかった」ことが、日本文化の誇りだと発言するような。私は天皇制否定論者ではないですが、そのおかげで、全く新たな視点を得るという機会が得られなかったことも事実だと思います。従って、特に日本では、「価値観を壊す」現代美術は世間一般に受け入れ難いという前提に、私は立っています。
新しい美を打ち立てるためには、まず「壊す」ことが重要ですが、「壊される」側がある以上、根強い抵抗があることは必然です。自分自身の手で、根本から、有史以後、国民的アイデンティティーを「壊したことがない」日本人にとって、根源的な変化は受け入れ難い概念です。(第二次大戦敗戦での国民的アイデンティティーの破壊は、「破壊された」ものであって、自ら放棄したものではありません。)
ということで、私は、現代美術を始めた時から、社会や世間に簡単に受け入れられる、という幻想は捨て、厳しい生活を覚悟いたしました。従って、私にとって絵を描くとは経済活動ではなく、壮大な趣味、あるいは自分にとって、作ることが宗教的意味をもつこと、になってしまいました。
しかし、経済効果をはかる必要がないので、世間に媚びる気持ちで作品を作らずにいられることも事実です。
んだ、んだ。。。。。。。と思うでしょうか?