選択の芸術
篠田守男
われわれの芸術は選択より始まる。絵を描く、木や石を彫る、版を刷る。それぞれの技術を獲得したうえで造形に進む。しかしそのすべてが作品になるわけではない。むしろすべてが作品にならないことの方が多いのである。作家達の多くがこのプロ
セスをふんでいる。効率のみで考えてみると、先ず作りたいものがあって、必要な技術を部分的にでも獲得する。これで相当な時間が短縮できる。更にはすでにあるもの、別の目的で作られたものを選択する。これはマルセル・デユシャンのレデイメ
イドであり、ピカソの「牛」、自転車のサドルにハンドルを装着したもの等がある。昔N.Yである絵描きが用意した新しいキャンバスにペットとして飼っていたオームが歩いて模様をつくった。これを出品して大論争になった。即ちオームがかいたの
で作品ではないとするものと、作家が無作為に出品したものではなく、選択というフィルターを通過しているという二論から後者におちつき作品として認められた事実がある。更には60年代の後半に入ってコンセプチュアル・アートの時代、知り合
いでもあったLAの作家ジョン・バルデッサリ「注文絵画 パット・ネルソンの絵画」(1969年作)では自分で写真を撮りそのまま日曜画家に描かせたものである。ここにいたっては「芸術の一部としての選択」すら薄れてしまっている。
私は作品を効率よく作り、短時間で完成させることを良とする。すでに頭の中にあるものを具体化するのであるからプロセスは早い方がよい。しかし我が国では長く苦しむことに満足をおぼえる。いわばマゾヒスト的理論である。具体化の悩みより頭
に中で組み立てるほど試練を必要とし、苦しみ、悩み、ジレンマする。これが制作上の肉体行為よりどれほどつらいかというと自由だからである。これを論じはじめると芸術とは?という大テーゼに関わってくるので割愛せざるをえないので、ここで
は冒頭の芸術の一部をなす「選択」に基点をおくことにする。
この度の展覧会では西洋骨董を主部品として私が選び出したものである。これらは私の技術では不可能なもの、発想しないようなもの、また部品として完成していることからまず時間の短縮がえられること、思いもよらぬ、自分にとって発想の転換が
はかれること等、多くのメリットがえられた。そしてなによりも、立体のコラージュともいえる奇想天外な結果が得られたことに満足している。
|